アメカジの永遠の定番 redwing(レッドウイング)のブーツをネット通販(通信販売)

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Redwing(レッドウイング)ブーツの特長

Redwing(レッドウイング)のブーツの特長は、上質な天然皮革と熟練の職人の手作業による製法。 シンプルでどんなファッションにも合わせやすい事もポイントです。

天然の革はじっくり履きこむ事で、自分の足の形に馴染んできて 本当の相棒として長く付き合えます。

また、Redwing(レッドウイング)のソールはメンテナンス性が高く、修理に出すことでずっと長く使えることも特徴です。

多くのバイカーに利用されている事も、機能性とファッション性の高い両立を物語っています。

Redwing(レッドウイング)ブーツの歴史

1905年1月、あるローカル新聞の一面に「靴工場が設立される」というニュースが踊った。 新聞の名はRedwing(レッドウイング)新聞。アメリカ中西部のミネソタ州にあるレッドウィングという街のローカル紙だ。 レッドウィングの街の名も、開拓当時この地域を治めていたネイティブアメリカン、スー族の酋長、ワクタ・レッドウィングにちなんだものだ。 この土地に豊富な大自然と綺麗な水が、良い革を作るのに適しレッドウィングに革靴工場が設立されるのは必然だと思う。 19世紀、多くのヨーロッパ人が希望を胸にアメリカ大陸へ渡り、ミシシッピ川をさかのぼった。レッドウィングの創設者、チャールズ・H・ベックマンも、そんな若者の一人だった。ドイツ移民の彼は17歳の時、レッドウィングシティーの革工場で就職。それ以来、自ら「シュー・マン」と名乗るほどの靴一筋の人生を送ることになる。そしてここで、後に共にビジネスをすることになる皮革商人、S・B・フットと出会う。 ベックマンの情熱とビジネス感覚を見抜いたフットは、彼を援助し、1883年、二人は共同で靴販売のビジネスを始める。しかし、20年間で50万足以上売り上げても、ベックマンは満足しなかった。「よりよい靴を作りたい」彼の願いはさらに強まっていった。こうして彼は14人の地元投資家とともに、レッドウィングシューカンパニーを設立したのだ。設立された工場は一日に500足生産出来るように設計されていたが、技術と人手の不足から、当初は75足~110足ほどしか生産できなかったという。だがベックマンの情熱と手腕で2年後の1907年には従業員75人、合計で1万ケースを出荷するほどに成長していった。

レッドウィングの名をまず世に知らしめたのは、たい肥加工を施したファーマー向けの「チーフ」ラインだった。 「チーフ」ラインは1912年にスタートし、黒と茶の二種類があった事から「ブラックチーフ」「ブラウンチーフ」と呼ばれ彼らの間で爆発的なヒットとなった。 この頃には日産720~840足まで向上した工場の生産力でも追いつかないほどの売れ行き。この1915年、レッドウィング社の売上げは75万ドルを超えたという。靴産業のほとんどが東海岸に集中していた時代、中西部のミネソタの山間からスタートしたブーツ会社が、世界的なブランドに成長する第1歩となった。

1921年にJ・R・スウィージーが三代目社長に就任。彼はビジネス感覚に優れたアイデアマンで、残りの人生をすべてレッドウィング社にささげることになる。そしてこの20年代はレッドウィングにとって、技術者的にもセールス的にも発展した年代となった。 初期最大のヒット作は「ビリーブーツ」。社長のスウィージーが、息子のビル(現在のレットウィング会長)のリクエストでデザインした、14インチの子供用ブーツである。1925年にリリースされ、その後20年間生産されたこのブーツの最大の特徴は、サイドに付いた小さなポケットと、その中に入った小型のナイフ。ビリーブーツはたちまち全米の子供達の憧れの一足になった。 あまりの人気からビリーブーツの類似品が多く出回った為、この子供用ブーツはレッドウィングで始めてホールマーク(ロゴの刻印)が入ったシューズとなった。本物であることを主張する為の対策だ。

J・R・スウィージーは、販売ルートの開拓にも力を注いだ。彼のもとで、地元レットウィングシティーとダラス、そして1931年にはニューヨークに支店を持つまでに発展したレッドウィング。スウィージーはユニークな商品を開拓する一方、各地に直営店を展開し、販売網を強化していった。取引先や小売店のためのセールスマニュアルを改訂し、フィッティングや接客方法、手入れやリペア方法など詳しく提案。こうしてレッドウィングの確かなブーツ作りによるクオリティの高さを願客に浸透させ言ったのだ。ソールを張り替え、何年にもわたって愛用して欲しい、というレッドウィングの姿勢は、すでにこの頃から始まっていた。

20年代から30年代にかけてブーツの主流はひざ下まである16~18インチのものだった。40年代に入り、8,9,10、インチのブーツが登場し、ファッションの面でも転機が訪れる。1936年、二人は668というハンティングブーツを造る。これは黒いなめし皮で、モカシンのつま先とコードソ-ルを持った10インチブーツだった。続いて1939年にはさらに進化した686をリリース。このシューズで「インディアンモカシンのように静かに、快適に歩ける」と言われたクレープソールを初めて採用。獲物に気づかれること無く、雑木林の中を動き回る為には、静かでクッションのいいクレープソールが必然の選択だった。その後、1941年にラインナップの大幅なリニューアルにより、ラップアラウンド・バンプというスタイル。フィット性や防水性を備えたモカシントゥと、アッパー下部の縫い目を排し防水性を高めたラップアラウンドバンブと呼ばれるアッパーの組み合わせは、画期的なもの。この頃すでに現在のブーツとほとんど変わらないアッパーが完成した。 従来の自社製品にあった「ハード、労働、義務」というようなイメージを打ち破り、レッドウィング社はこのブーツを、スポーツマンののためのレジャーシューズとして位置付けようとしたのだ。スウィージーの展開した多角化の戦略が、ハンティングブーツの名作となって実を結ぶことになる。

1936年、レッドウィング社とかねてから取引のあったレオ・メテンという皮革業者が、レッドウットツリーを使ってなめしたオレンジの革を開発した。この革はかつてないほどしなやかで、弾力性に富み、硬くなりにくいという特徴を備えていた。さらにオイルタンを施してあるため、防水性も持つという優れたものだった。レッドウィングはさっそくこのレザーの権利を獲得し、オロ・ラセットと命名。1950年のラインナップで954と854に採用。その独特の革の色がアイリッシュセッターの毛の色に似ていることから、このブーツを「アイリッシュセッター」と名づけた。ここに、現在まで続くレッドウィングのアイリッシュセッターが誕生した。そして去年、アメリカの靴の歴史に大きな足跡を残すことになる877が発売される。877に採用されたクッションクレープウェッジソールは、当時の先端技術。軽量でクッション性に優れている。

その読みどおり、877は発売直後から大ヒット。877がスポーツブーツを基本にしながらも、様々な職業の人達に履かれ、愛されていたからだとレッドウィング社は分析する。877のヒットは会社全体の知名度、売上の向上にもつながり、レッドウィング社は名実共にアメリカのトップブランドとしての地位を不動のものとした。やがて877は靴と革製品の歴史を語るものとして、地元の博物館にも展示されるほどの存在となる。その展示での一コマに、こんなエピソードがある。ガイドが「このブーツの革は何の動物から出来ているか知ってる?」と質問すると一人の少年が喜んで答えた。「知っているよ!アイリッシュセッターでしょ!?」アイリッシュセッター。そしてレッドウィングその名は小さな子供たちにも浸透している。レッドウィングは単なるブーツという存在を越えた、アメリカ文化の象徴ともいえる。

レッドウィング社の現在の会長はあの「ビリーブーツ」を父親にリクエストしたビル・スウィージー。14人からスタートした当時の工場の生産力は1日10時間稼動して110足。今では工場の数も増え、創業当時とは比較にならないほどのブーツを生産し続けている。レッドウィングのワークブーツはアメリカ国内の約30%、エンジニアブーツなどのセーフティシューズにいたっては、約80%ものシェアを誇っている。全米に400店以上の直営店とフランチャイズ店を持つ大企業になった。だが創業当時の町工場ににあった、あのあたたかみは忘れない。実際、レットウィング社で働く人の特徴に、親子二代にわたる従業員が少なくない点が上げられる。一流のブーツを作るという誇りを忘れず、地域に根ざし、居心地のよい職場環境がうかがえるのである。町工場から始まったレッドウィングシューズの歴史は今も変革と成長を続けている。